Tuesday, October 27, 2009

The rising sun

今日の朝日は素晴しかった。
アーティストの皆様には申し訳ないが、どんな芸術にも勝り精神に訴える力があると思う。古代から人間が自然を神として崇め、そして恐れてきたということも納得できる。


近頃、人間の手が加えられていない(加えようのない)自然の美しさ魅せられている。たとえば、隅々まで手入れのいきとどいた庭園と、四季の移ろいの中で刻々と姿を変える自然の草木達。庭園も美しいけれど、自然の草木達の、環境に応化し生き抜いた後に枯れ果てた姿になんともいえぬ美しさを感じる。おそらく、そこには次世代や来春にむけた希望が篭められているからなのだろう。

先日、TVで、登山家の田部井淳子さんが、40代後半の男性アナウンサーと北アルプスを縦走するという番組が放送されていて偶然観ることができた。田部井淳子さんはお名前とお顔、エベレストに女性で世界初の登頂に成功された方という程度の知識はあったが、それ以上のことは存じていなかった。

しかし、番組を観てこの人はスゴイと思った。自らの意思に関係なく過酷なまでに変化する山の環境にあって、常に平常心を保ち瞬時に的確な判断を下し行動する。同行していたアナウンサーのネガティブに陥りそうな気配を感じると絶妙な心遣いで気持ちを盛り上げるなど周囲への配慮も完璧。そして何より、どのような状況にあっても希望を失うことなく持ち続けている。

悪天候で計画の変更を余儀なくされ山小屋で過ごしていたとき、「待つというのは本当に苦しい」と言いながらも筋トレに勤しみ、翌朝、快晴の空に聳え立つ目指す穂高の山頂を見上げ、「行きます!わが足で行きます!」と呟く田部井さんの横顔は本当に美しかった。

Wednesday, September 23, 2009

そうあるべきことはやがてそうなる?

明日から秋学期。この連休はずっとドイツ語の文法書と格闘していた。しかし、目に見えるような成果は、そう簡単には得ることができない。夏休み、無駄にしてしまった時間を取り戻すこともできない。

しかし、今は学ぶことに対しとてもポジティブ。クヨクヨと考えていたことがふっきれて、ありたい自分を実現するための方法や努力の仕方が見えてくる。まぁ、「開き直り」ということもできるのだろうが、今、時分が取り組んでいることが本当に好きだということは確信している。

「そうあるべきことは、やがてそうなるだろう」(Aischylos)

ということで、膳は急げ、銀座伊東屋で来年の手帳を購入する。私は、かれこれ6年以上、バイブルサイズのシステム手帳を愛用しており、購入するのはバインデックスの週間ダイアリー(右ページに罫線が入ったもの)とカレンダータイプの月間ダイアリーのリフィルと決まっている。今回は鉄道路線図も購入し6年ぶりに更新した。

さっそく手帳にセットして、来年の予定をどんどん書き込む。そして、過去の記録は外して保存用ファイルにファイリングする。過去の私は現在の私の中に含まれ、未来には現在の私が孕む可能性が現れる。

Wednesday, September 16, 2009

through

大学生協で本や雑誌をあれこれ購入。目を通していなかった少し前の雑誌に、新しい判例の評釈などが出ていて、怠け心を自省する。

ファカルティクラブで昼食をとったあと図書館で一意専心お勉強。

気にかける必要のない噂や批判は through する。


トリニティの愛で蘇生し、覚醒したネオの気分。

Monday, September 14, 2009

はんなり


立命館大学で行われた日独シンポジウム「量刑法の基本問題」に参加する。

裁判員裁判がスタートして間もない日本。原田判事の報告にあった、「裁判員裁判による量刑判断については、点の審査よりは、幅による審査のほうがふさわしい」というのはそのとおりだと思う。

控訴審では職業裁判官のみによる判断がくだされるとはいえ、量刑については、「よほど不合理であることが明らかな場合を除いて一審の判断を尊重すべき」と最高裁司法研究所の研究報告書にも記されている。

国民の視点や知識、感覚、社会常識を反映させることを理念とする裁判員裁判によってくだされた判断が、控訴審で職業裁判官によって不当とされるのなら裁判員裁判など不要だということになる。

しかし、そもそも「理念」とは、環境の変動などの状況を整理し、問題点を見つけ出し、解決のための提案を模索する中で生まれるのであり、それらを具体的に改善された状況として現出させるために「制度」が作られる。つまり、本来理念は制度のなかに具体化されているはずのものである。

「控訴審は職業裁判官のみで行う」という制度は、国民の視点や知識、感覚、社会常識を刑事裁判に反映させるという理念が生まれる以前から存在するものであるから、新たに生まれた理念はこの制度の中に含まれていない。

新しい理念と従来の制度との一貫性を示すために「1審の判断を尊重すべき」としているのなら、そこには何らかの歪みがあるような気がしてならない。新しい理念を貫くのなら、旧い制度は、新しい理念によって、状況に対応できるものに革新されてゆかなければならない。

しかし、急激な改革は、組織の構成者個々の対応の遅れを招き、不安を発生させる要因となり、やがてその不安は絶望へとつながりやすい。


2日目、ホテルグランヴィア京都の洗練されたフロントの対応に満足し、前日の雨で澄み切った空気と素晴しい晴天に浮き立ち、すでにレジュメは前日に2日分頂いていることに安心し、久しぶりに訪れた京都が慕わしく、シンポジウムの会場を抜け出して京都観光。


同志社大学、京都大学とまわりながら北野天満宮で学問の神様にお祈りし、世界文化遺産である金閣寺に寄る。哲学の道を散策しながら銀閣寺の山を登り、観光客で賑わう昼の祇園を横目に清水寺の舞台にあがれば、私は何度清水の舞台から飛び降りたことだろうと感慨無量の面持ちとなり京都の町を一望する。

はんなりと京都の魅力を満喫。
そして、ドイツ語の必要性を実感。

Friday, September 11, 2009

感佩

久しぶりに母と電話で話した。相変わらず元気で、お互いの近況報告の後、「最近[吹き矢]をはじめて有段を目指しているのよー」とか、「コーラスの舞台の司会をたのまれたので原稿を書かなければならなくて大変だわ」なんてことを30分以上も聞かされ、「じゃ、お互いがんばろうね!」と言って電話が切れた。

母がいう。あまり先のことばかりを考えていると不安ばかりが募り何も手につかなくなり、良い結果に結びつくことは少ない。登山に行ったときのように、しっかりと計画をたてたら、足元に注意しながら着実に歩みをすすめ、振り返ったときに、ずいぶん登ってきたなぁと思えればそれでいいじゃない。人生何があるかわからないんだし。

こんなに素直にストンと母の言葉を受け入れられたのは、母との長いつきあいの中でもそう度々はない。母は私に何度も何度も伝えようとしていたのだろう。

天文学的な時間の単位の中で、「わたし」の命の時間が、今ここに存在しているという不可解な事実に感佩。

Monday, September 07, 2009

「切り取った『部分』」

福岡伸一さんの『世界は分けてもわからない 』(講談社現代新書)を読む。

前作、『生物と無生物のあいだ 』(講談社現代新書)もタイトルからして気になってはいたものの、ベストセラーであるが故に、何処ぞやの脳化学者のように、作家となった研究者のエッセイではないかと敬遠していた。

しかし、少し前に日経新聞夕刊に連載されていたコラムを読み、文学的な語り口と、分子生物学の視点から、社会をバッサバッサと切りきざんでいく手法にすっかり魅了されてしまった。

たとえば、2008年10月30日付コラムでは、美容に絶大な効果があるといわれるコラーゲン(信仰)について、「普通の食事をしている限り、コラーゲンが不足するなどということはあり得ない」、という事実を、分子生物学的な根拠を示しながら述べた後、「外見は本物とそっくりにつくった偽薬を、それとは知らずに投与すると、かなりの割合でなんらかの改善が見られる・・・これほどさようにヒトは信じやすく、信じるものは救われる・・・何かを諫言するつもりはない。ただ幸いであると思う。そしてひとりごちる。それにいったいいくら払ったのだろうと」と締めくくる。

人は共感を覚えるとポジティブな評価をするということや、私が一貫した理系オンチであり専門知識がないということを加除しても、読んでいて痛快このうえない。

当然のことながら、優秀な研究者を抱える各メーカーも、コラーゲンが体内のアミノ酸からいくらでもつくりだせる物質だということは百も承知しているようで、注意してみると微妙な言い回しがズラリと並んでいる。

「摂取しすぎても効果がより得られるというものではありません」
「コラーゲンが不足すると・・・となります」
「コラーゲンとして合成されるとは限りませんが、体内で再び合成される確率は高くなります」

虚偽ではないけれど、建前だけで本音のない政治家の発言のように歯痒い。

事実を正面から表記するのなら、
「細胞間のクッションとなりお肌の張りを保ち、関節の潤滑剤としても働きます」
但し、
「コラーゲンはもともと消化されにくいタンパク質なのでそのまま排泄されてしまう分がかなりあり、少なくとも、摂取したコラーゲンがまるごと消化管を通り抜け、細胞間や関節に届いてその場所に補給されるなどということは全くありえません。」
「私達の細胞は、コラーゲンが必要なときは、吸収したアミノ酸からいくらでも作り出すことができます。コラーゲンの合成に必要なアミノ酸はごくありきたりなものなので、どんなタンパク質にも含まれており、普通の食事をしている限り、コラーゲンが不足することはありません。」
となるのだろう。

Friday, September 04, 2009

Schleich GmbH

今年の夏、シュライヒ(Schleich) というメーカーの動物フィギュアに出会い、そのリアルな表情と美しい造形に魅せられ、部屋の一角がサファリと化している。

フィギュアなど全く興味のない通りすがりの私を惹きつけるなど只者ではない・・・と思い調べてみると、シュライヒ(Schleich)は1935年に設立されたドイツのオモチャメーカー。野生や牧場の動物から、絶滅した先史時代の恐竜まで、様々なフィギュアを製作している。



シュライヒ社の正式社名は ’Schleich GmbH’ ・・・GmbHって何だ・・・そこで再び調べてみると、Gesellschaft mit beschränkter Haftung 株主有限責任の物的会社。企業形態としては日本の会社法でいうところの合同会社(旧有限会社)に類似した企業形態。

GmbHは、何といっても設立や運営に関する手続きが簡単。1人でもOK、監査役会不要、最低(授権)資本金額25,000ユーロ(株式会社の半分)、最低払込額は授権資本金の25%、かつ12,500ユーロ以上。設立手続き書類も、設立登記申請書、定款 、取締役の署名の認証、社員名簿を作成して、公証人・弁護士を選定し公証人の認証をうけたら管轄の商業裁判所に登記申請書を提出すればOK。

日本の合同会社も、同じく設立手続きは簡単で、費用もあまりかからないのが特徴。1人設立OK、いくつかの絶対的記載事項を記載した定款を作成したら出資者が出資金を振込み、法務局に登記申請すればOK。

しかし、GmbH と合同会社の一番の違いは、GmbH は社会・経済的ステータスが低くなく、社会的信用が確立されているということだろう。

日本の場合、たとえ実質が個人企業であっても「株式会社○○○○」と記載されているだけで、社会的ステータスが与えられ信用を得ることができる。そのため、株式会社の90%以上が、本来なら個人企業形態を採るもので株式会社形態を採るべきものではないともいわれている。

実質を伴わない、名称自体への「憧れ」による選択には、一度問題がおきれば収集がつかなくなるような深刻な問題が潜んでいる。